なんとも「百人一首」には、天皇家と冷泉家(れいぜいけ)だけに伝えられていた別バージョン「百人秀歌(ひゃくにんしゅうか」があることがわかっている。
なんでわざわざ二つも作ったのかは、わかっていないけど、
百人一首は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌。百人一首には後鳥羽院の歌が含まれているけれど、百人秀歌にはないことから、鎌倉幕府に流罪処分を受けた後鳥羽上皇や周囲を意識した定家の政治的配慮という説がある。
そして「百人一首」と「百人秀歌」に隠された数字がおもしろい。
古今和歌集に記された代表的な六人の歌人を「六歌仙(ろっかせん)」と呼ぶけど、「百人一首」と「百人秀歌」の歌集には、「六歌仙」のうちから五人の歌が選ばれている。
その五人とは
僧正遍照(そうじょうへんじょう) 12、15
在原業平(ありわらのなりひら) 17、10
文屋康秀(ふんやのやすひで) 22、27
喜撰法師(きせんほうし) 8、14
小野小町(おののこまち) 9、13
なぜか六歌仙の一人、大伴黒主(おおとものくろぬし)は選ばれていない。
名前の後ろに記したのは、歌集の中で何番目に配列されたかの番号で、左が「百人一首」、右側が「百人秀歌」の番号になる。
喜撰法師と小野小町のそれぞれ (百人一首) + (百人秀歌) を足すと「22」となり、文屋康秀の「百人一首」の番号と一致する。
また在原業平と僧正遍照それぞれ (百人一首) + (百人秀歌) を足すと「27」となり、これもまた文屋康秀の「百人秀歌」の番号と一致する。
歌の順番を定めるのは苦労したと思うけど、こういった数のしかけを組み込むことで、様々な問題をクリアしていたのかもしれないね。
いまでも会社の飲み会などでは、上座、下座があるし、取引先やら招待客がいたら幹事は、頭を悩まされるもんね。迷ったときは、数のしかけを組み込んで、上司を納得させるのもおもしろいかも・・・。